武高の思い出 vol.2 緒方浩二郎さん
早飯と大宅先生 緒方浩二郎[高校17回卒]
小生は婆ちゃんっ子です。祖母は明治生まれのホーケン的な女性、“おなごに負けてはいかん”など、今の世の中ではうっかり口にすると某元総理のように役職からの即更迭につながるような価値観を叩き込まれて育ちました。その一つに“男は早飯(ハヤメシ)・早糞(ハヤグソ)でなければならない”というのがあります。常時、大事に備えて食事はさっさと掻き込み、トイレは短時間で済ませるよう心掛けよ、というわけです。おかげで、今なお、家内が1時間もかけて用意した夕食も十数分でおしまい、家内を嘆かせています。つまり、“早飯”とは、迅速に飯を食う事という理解でした。
ところが、武高3年になってからこれに全く違う意味があることを知らされました。高2までは、午前・4時限の授業が終わってから弁当を広げていたのが、3年になると、誰からともなく、3時限終了と同時に弁当をぱくつくことが始まったのです。
これを“早飯”と呼び、3年生になるとこういう事もできるのか、と特権を得た気分でした。3時限と4時限の合間の15分の休憩時間中に、培った早飯の技で、育ち盛りの腹にさえも十分のドカベンを5分で掻き込むのです。腹が減っては戦が出来ぬ、4時間目に備えて腹をこしらえ、気合を入れて臨もう、という常時大事に備える敢闘精神の発露だったのでしょう。
勿論、そんなことは許されるはずもなく、ぱくついているところを覗かれないように、特に先生の目を避けるために、夏場でも廊下側の窓を閉め切っての早飯でした。一人一人の弁当はおいしい匂いのはずですが、十数人の弁当から立ち上る匂いの分子が合成されるとえも言われぬ異様なにおいが教室中に充満するものです。数学の山下先生等は4時間目の授業で来室されると、“うもーなかごた匂いがいっぱい”と、苦笑いで授業にかかられるというふうでした。先生方は早飯の実態を先刻承知だったのですね。
ある時、早飯の最中に、突然がらりと廊下側の窓が開いた。早飯生徒は驚いて箸を持つ手を挙げたままそちらを振り向く。そこには体育の大宅正恒先生の日焼けし、眼鏡の奥の目を細めたにこやかな顔。生徒一同、その表情を見て、ほっとして食事を続けようとする。
とたんに大宅先生の顔つきが険しくなり、鬼の形相に一変。“カクセーッ”という怒声が教室内は勿論廊下にまで響き渡る。我々は弁当箱の蓋を被せるのもそこそこに慌てて机の中にしまい込みました。それを見て、先生は無言で、悠然と窓を閉めて立ち去られました。
大宅先生は武高の先輩ですが、我々とは10歳しか違わないので、当時27歳、兄貴のような親しみを感じていましたし、先生も我々を子分のように思っていて下さったのだと思います。しかし、先生は先生、親しき中にも礼儀あり、立場の違いがあることを弁えて、弁当箱を隠す、あるいは隠すふりをしなければならなかったのです。今風に言うとそんなこともできない“忖度”力不足、“弁え”ない餓鬼どもだったのですね。
その後も先生には、我々17回の同窓会出席や、東京支部総会当番幹事の時には招待恩師として喜んで上京していただくなど、親しく接していただきました。
そして上記の早飯事件から57年経った、コロナ禍の昨年の11月、地元の畏友篠田兄がメール配信してくれた旧友木原信一氏の逝去を報じる佐賀新聞の訃報蘭。木原氏のお名前の一人前に、“大宅正恒様 84歳”の記載を目にして、驚愕し、我が目を疑いました。あんなに元気で同窓会にもおいでいただいた先生。地元の真手野でご活躍と風の便りにも聞いていました。まさかと、にわかには信じられませんでした。
つぎにお会いする機会には、57年前の“早飯事件”を肴に酒を酌み交わし、当時先生の胸中をお察しできなかった非礼をお詫びせねば、と思い定めていましたが、それも夢となってしまい、慙愧に堪えません。今となってはご冥福をお祈りするばかりです。
この年になると、思い出が、それも友人知人の訃報を機会に、若いころの日々が甦ってくることが多くなりました。皆様いかがですか。